2020/04/03 17:48
〜食肉の400年以上もの歴史〜
日本では古来より米が主食であり、魚、その他副菜が一般的だったので日本国民が想像する食事にはその印象を強く持つ人が多いと思います。かつて天武天皇の時代に日本最初の殺生禁止令を出され、食用のために動物を殺生することが禁じられました。そしてこの令は、以後、約1000年間に渡って明治時代の文明開花時まで続いたので、食肉を口にすることのなかった日本国民にとっては抵抗感を根付かせました。一方、織田信長が統治する時代(1500年代)にポルトガルの宣教師がキリスト教の特権と称し、織田信長に試食させたのが牛肉食の始まりと考えられています。文明開化に伴い殺生禁止令は排除されたものの明治初期には、まだ食用としての肉牛肥育は行われていませんでした。農耕や運搬のための労力として使われていました。
〜彦根藩と食肉のつながりと近江牛の名に至るまで〜
文明開花以前、肉のための殺生は禁止されていたが、その中で江戸時代に牛肉生産を唯一公認されていたのは彦根藩です。4000人あまりの武士と雑兵を抱える彦根藩にとって牛皮は、武具や鞍の製造に欠かせなかったので皮を剥いだ後の牛肉は食用として用いられました。
そして、彦根藩は冬場になると藩主の井伊家から将軍家や諸候へ寒中見舞いとして食肉を贈っていました。しかし食用としては、禁じられていたので養生肉と称し、彦根牛肉が美味で滋養に富むという評判が早くから立ち、広く知れ渡離ました。時が経ち、明治維新前の1862年の日米修好通商条約の締結により横浜に多くの外国人が居住するようになります。外国人が牛肉を好むと知った近江(西居)は、牛を近江から横浜まで牛を17,18日かけて引き運び、外国人と直接取引を始め、江州牛と称して東京近辺には近江から牛が多く出荷されていました。さらに運搬方法も引き運びから海運へと変化し、1889年には東海道線の開通により効率的かつ大量の鉄道輸送へと変遷を遂げました。そして、流通の増加に伴い東京の消費者たちは江州牛から近江牛へと呼称を変え、近江牛がブランド牛として全国で広まりました。